Memories
【地獄】日曜学校

5月18日

 私の職場には防音室があり、外部に音が漏れない構造になっている。防音室の使用用途は様々だが、昼休みに忘れ物を取りに入ったところ、オフィスチェアーの上に正座をした状態で気絶している後輩が目に入った。瞬間、「即身仏」というワードが頭に浮かんだ。我ながらナイスな表現力だと少しニヤけてしまった。

 

 ふと湧いた「即身仏」というワードが妙に気に入り、Youtubeで調べてみたところ、なかなか面白い内容だった。日本には9体の「即身仏」があるらしいが、本当に私が調べた通りの修行の末のものであるならば、すごい事だ。連動する形で、仏教、「日曜学校」と発想がつながった。

 

 今日は、私が小学生の頃どのような生活を送っていたか、その一部を書き留めておきたいと思う。特に、田舎の同世代の戦士たちとは強い共感を感じてもらえると確信している。

 

 1980年代、それは、私たち団塊ジュニア世代が小学生だった頃になる。

 

 現在2022年の小学校は土曜と日曜が休みであることが当たり前だが、我々はそうではなかったのだ。驚くことに、土曜日も登校日だったのだ。ただし、土曜日は6限目まであるわけではなく、昼までで授業が終わり、その後、集団下校という形になっていた。土曜日は給食もなかったことから、下校時に酷く空腹だったことを記憶している。

 

 原則として小学校へは徒歩で通学する事にされていて、特に私のような田舎の小学校へ通う場合は、遠い道のりを歩くことになる。毎日、片道30分の道を歩いて通学していた風景がこの文章を書いていると浮かんでくる。土曜日は半日で学校が終わるから、日曜日と合わせて週休1.5日という意味合いの事を親や学校の先生は言っていたが、通学の時間を考慮すると、実際は、土曜日を休みの一部と考えるにはあまりにも無理があった。そうすると、私たちが休みと考えられるのは日曜日だけだった。

 

 そんな貴重な日曜日を台無しにしたのが、「日曜学校」の存在だった。

 

 「日曜学校」とは、文科省の下に存在する所謂小学校ではなく、”寺” にて住職が良かれと思って執り行うものだ。具体的には、朝の8:00に寺の御堂に地域の小学生が招集され、広い畳の部屋にて正座、やがて住職が現れ、小噺ののち、お経をあげるというものだ。

 セットリストとしては、正信偈(しょうしんげ)、礼拝の歌(らいはいのうた)がレギュラーメンバーで、運が悪いとさらに一曲が追加された。この「日曜学校」が終わる頃には日はすでに高く昇っており、日曜日も残すところ半日となってしまうのだった。

 

 「日曜学校」から帰って、昼飯を食べる、友達と遊ぶも3時間くらいで解散せねば明るいうちに家には帰れない。家に帰って夕飯を食べる頃には「サザエさん」が始ってしまう。。。この時間帯から徐々に憂鬱な空気が漂ってくる。宿題が残っている場合は更なりである。「時間よ止まれ!」心が叫ぶ。仕方なく、テレビを観ながら宿題をしていると「ハウス名作劇場」が始まる。「時間よ止まれ!」本気で祈ってみる。「ハウス名作劇場」が深い絶望を与えてくる。ハウスが終わると無気力になり、明日の事は考えない、思考停止に陥る。

 

 「また明日から・・・」という言葉は、空気の読めない私の弟でさえ発することのなくなった禁忌となった。

 

 そんな理由で、私は「日曜学校」がイヤで仕方がなかったのだが、田舎の近所付き合いや、檀家の問題というのは深淵なる闇を抱えていて、小童の主張など意識にも上げてもらえない状況だった。今思い返すと、私の周りにはまともな判断ができる視野の広い大人が居なかったのだなと、しみじみ思うし、当時の自分の意思表示の下手さに悔しさを覚える。

 

 当時の田舎はダメだった、50歳を目の前に、あらためて確信するところだ。

 

 やはり、我々団塊ジュニア世代は何かとハードモードを選択しているな。。。

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